子どもを出産して感じたことですが、
母が我が子に障害があると知った時、どんなに絶望したか。
今でも母は、弟と妹を健康に産んであげれなかったと後悔しています。
時代は流れ、法律も変わり、メディアも変わり、障害があっても自由に生きれる社会に日々変化していることは間違いありません。
ただ、障害のある子を産んだ母親の、何とも言えない罪悪感、葛藤、苦悩。
これは、簡単に変わらないと思うのです。
優性思想、出生前診断。
障害児の出生に関して、いくらでも熱い議論はできると思う。
けれど、議論の前に、
ただ、事実、我が子にハンデを負って生まれたという、
お母さん、お父さんの悲しみに寄り添うことが先だと思うんです。
健康に産んであげれなかった。私がもっと気を付けていれば。
何がいけなかったかな。
そうやってこっそり、自分を責め続ける母の心、耳を傾ける覚悟がないなら、
議論は無意味だと思います。
この現実を受け入れるのに、ある人は宗教に、ギャンブル、アルコール。気を紛らわそうと何かに頼る。
それで幸せだと感じるなら、それでもいいのかもしれない。
こうすればいいという答えは存在しない。
だけど、誰もが幸せになるために産まれたのだから。
まず、お母さんが幸せを選ぶという主体性が必要です。
障害の子を産んでしまった。たとえ原因を突き止めても、この事実は消えません。
でも、だからと言って、絶望したまま残りの人生を歩むことは勿体ない。
健常者の育児以上に、家族だけでなく、周りのあらゆるサポートを使って、
自分の心を癒してほしい。
そして、すでに生まれている「きょうだい」、
これから加わるかもしれない「きょうだい」を、無条件に愛してあげてください。
きょうだいは、母にとっては、自分の分身のように感じ、
自然とケアを一緒に担うようになりがちです。
でもきょうだいは、お母さんとお父さんの愛を必要としています。
そのことはぜひ、心にとめていてほしい。
みんな、幸せになるために産まれてきたのだから。